HAIKU HONYALALA Vol.21 BOURBON KOBAYASHI

December 27,2017 /

あっちゅーまに年末。今年はなかなか句会に出席できなかったので、夏井いつきさんとブルボンさんが本名で選者を勤めている野性俳壇にいそいそと投句をしていました。特選句、佳作の句を読んだり選評を読んだりして、「俺もいつかは!」と作句しています。その野性俳壇、回を追うごとに夏井さんとブルボンさんの対談がノッてきている。いつも短い対談なのだが、選をする事の面白さが垣間見れる。それを感じるとやはり句会が恋しくなるな~。という事で2017年もブルボンさんありがとうございましたー!(smallest)

ブルボン小林の俳句ホニャララ / vol.21

どんな俳句にも作者がいる。 どんな創作も作者がいる、と言い換えてもいいんだが、俳句は特に、作者がいるなあ、いるいる、と思う。小説とか、写真とかよりも強く感じる。 「安易な自分語りなどやめ、写生に徹しろ」みたいな教えを俳句ではよく言うけど、それなのにだ。 「遠山に日の当りたる枯野かな」(虚子)みたいな渋い句をみても、いるなあ、作者、と感じないときはない。 小説は露骨な「こしらえもの」なんだけど、あまり思わない。同じ作者のものをいくつも読んで、やっと「その作者らしさ」を思ったりする。 もっとも、俳句一句で、作者「らしさ」が分かるわけではない。実感するのは、とにかく作者が「いる」ことだ。誰かがそういうことを俳句にしようと思ったのだなあ、と強く思うわけだ。 写真なんか、間違ってシャッターを押しちゃっても写真だ。でも、間違って俳句ができることはない。文字をそのように並べて発表した人が、必ずいる。 つまり、(前もどこかで書いたが)俳句には「そういうことを俳句にした人がいる」という文字情報が添付されている。 遠山に日の当りたる枯野かな というテキストは 遠山に日の当りたる枯野かな(ということを俳句にした人がいる) というテキストと同義なのだ。 ただこれが 遠くの山に日があたっている枯野がある というテキストだと、そういう風には思わない。作者を感じない。定型と切れ字というカッコつけが、「そう言おうとした人」の存在を輪郭づけている。 そんなの当たり前だと言う人は冴えてない。 小説だって「ということを小説にした人がいる」という情報のテキストは添付されている。でも、小説は「ということを小説にした人がいる」というテキストより圧倒的に長い。 俳句はたった十七音だから、「ということを俳句にした人がいる」は、拮抗する長さの情報なのだ。 僕はこれは重大なことだと思う。 流れ行く大根の葉の早さかな という虚子の句は最近でも名句か駄句かと議論されてるそうだが、付帯する情報を思うとき、名句かどうかはともかく、もうっ虚子好き! と僕は思う。 流れ行く大根の葉の早さかな(ということを俳句にしようとした虚子) 言い換えれば 流れ行く大根の葉の早さかな(そんなことをわざわざ俳句にした虚子) もっと言い換えれば 流れ行く大根の葉の早さかな(そんなことをわざわざ俳句にするなよ、虚子) ということになる。 「ということを俳句にする」にも、さらに付帯する言葉がある。それは「わざわざ」だ。 我々はわざわざ俳句を作っているのだ。そうでない俳人はいない。 俳句を作り続けるということは、どこまで「わざわざ」創作できるか、という試みをするということでもある。 そのことに気付いたとき僕は「初鮫は片足残してくれにけり」という句を作った。 字余りだし、たいした句ではないが、気付いたことを保存しておきたかったのだ。 新年そうそう鮫に襲われたが、両足ではなく片足ですんだ(よかった)、という句だ。初鮫という季語はないのだが、これは最初から大した句じゃないのを作ってるんだからいいだろう別に。 すべての俳句の末尾に「……ということを俳句にした」という情報が付帯されているならば、挑戦できる面白さに「ていうか、俳句なんか作ってる場合か!」がある。わざわざ、を活かすわけだ。 自宅の火事をみながら連作を作った俳人がいる(小林恭二著『俳句という遊び』で紹介されて知った人が多いかもしれない)。皆吉司という方の連作で「門柱に朝刊置かれ火事終わる」とか、なんだかすごいのだ(ふらんす堂のブログに一部が抜粋されてます)。 そんなトライが既にあるんだから、サメに食われるくらいやらないと、と思ったのでもある。 我が身の生命の危険のどこまで「俳句にする」が出来るだろう。本当にホオジロザメに襲われたとき、僕は俳句を作れるだろうか。 ただギザギザなだけでない、奥にも生えてスタンバイしている重層的なあの歯のことを、海に広がる太腿からの鮮血を、ちゃんと写生できるだろうか。 そういえば「辞世の句」という言葉がある。 辞世の詩や辞世の歌という言い方はしない。 死ぬ間際さえ「句」を作ることは滑り込みでできる。名句になる可能性は低くても、トライ出来る。 それが俳句の特性だ。

今日の俳句

板チョコを割るのに力はさほどいらない。「さほどいらない」は、必ず「少しいる」ということだ。どっちに感受するかだ。それが俳句の輪郭になる。火事も俳句になるが、年を経て(力が)弱まっていくことも俳句になるのだともいえる。 この連載の第一回で登場した紫黄さん。第一回に書いた逸話を、先日久しぶりにあった句会の仲間も皆、忘れてなかった。没後十年だ。

野性俳壇 雑誌「小説 野性時代」で、ブルボン小林が(本業の名前で)俳句欄の選者を勤めます。一緒に選をするのはテレビ番組『プレバト!!』でもおなじみの夏井いつきさん。投稿はこちらから。 天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 俳句ホニャララの作者、本名による句も掲載されている、若手俳人のアンソロジー。編著者は佐藤文香さん。ガイドブックには珍しくテーマソングがあり、自身の句も掲載されているトオイダイスケさんが作曲、編曲、演奏、歌を担当する。 春のお辞儀(ふらんす堂刊) 俳句ホニャララの作者が本名で刊行した第一句集「春のお辞儀」絶賛発売中。 最初で最後の活版印刷で限定発売。 もう生まれたくない 俳句ホニャララの作者の、本名による新刊。誰もが死とともにある日常を通してかけがえのない生の光を伝える、芥川・大江・谷崎賞作家の新境地傑作小説! 観なかった映画 俳句ホニャララの作者が、本名で刊行した映画評論集。はたして作者は映画を観たのか観なかったのか?ぜひ本を手に取って確かめてください、ポップコーン片手に。 EXISTENCE デーモン閣下5年ぶりのソロアルバム。ブルボン小林がエキレビ上でデーモン閣下にインタビューしたことがきっかけで、作詞で参加している。そのインタビューにおける、約10万年生きた悪魔とボンさんのやりとりは必見。その模様はこちら
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ブルボン小林

ブルボン小林

72年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。 00年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。 常にニッチな媒体を渡り歩き、北海道新聞、週刊文春などのメジャー誌から、スウェーデンの雑誌やメルマガなどでも連載。 06年刊行の「ぐっとくる題名」(のちに中公文庫)は、広告業界やテレビ局の人間など、あらゆる「命名する」世界の業界人たちから絶賛され、ひそかな小ヒット。 現在は朝日新聞(関東と九州)、女性自身などで連載。小学館漫画賞選考委員。 その他の著書に「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」(ちくま文庫)、「ゲームホニャララ」(エンターブレイン)、「マンガホニャララ」(文藝春秋)など。 ブルボン小林 公式サイト

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