HAIKU HONYALALA Vol.13 BOURBON KOBAYASHI

December 20,2016 /

前回の俳句ホニャララの前説で紹介した、ブルボンさんの本名での作品『三の隣は五号室』が第52回谷崎潤一郎賞を受賞しました!りっぱ! しかも授賞式に招待してもらい、うまい飯をたらふく食べさせてもらえた!やった! がしかし、俳句ホニャララが「作者取材のため休載」していたことを僕は忘れていなかった…。 そんな矢先、原稿がやってきた!そう、このホニャ語りを待ってました! あー、これで気持ちよく年が越せます。来年もよろしくお願いしますねブルボンさん!(smallest)

ブルボン小林の俳句ホニャララ / vol.13

「愛してるよなんて 誘ってもくれない」 これは荻野目洋子のヒット曲「ダンシングヒーロー」の歌い出しだ。 これの意味が分からない人はいないだろう。だけど、ナンカコー、ん? という気持ちが中学生当時の僕にはあった。 これは「愛してるよなんて(言っておいて)誘ってもくれない」という嘆きだ。 だけど、「愛してるよなんて言っておいて誘ってもくれない」という日本語と「愛してるよなんて 誘ってもくれない」という日本語とでは、そのニュアンスに差が出る。後者の方が、気持ちの含むところが増している。メロディにあわせるために端折ったのだろうが、より奥深くなっている。 「テニスコートを駆けまわる 選び抜いたもの集め作る中華料理」 これは矢野顕子「ひとつだけ」の一節だ。 その一節の前は「楽しいことはほかにもある」で始まる。だから、その「楽しいこと」を歌っていることになる。 だが、我が俳句同人傍点の人たちがこの歌詞についていっていた。 「テニスコートを駆けまわる」と「選び抜いたもの」は「切れるのか」と。 つまりだ。上記の歌詞は 「テニスコートを駆け回りたい。(よいものを)選び抜いて中華料理を作りたい」と二つの願望を述べているのか。 あるいは「テニスコートを駆け回って(なにかを捕獲または採取し)選び抜いて集めて中華料理を作る」と一つの願望を述べているのか。 切れているか切れていないかどっちだろう、というのである。 僕がそう疑念を出したわけではない。 僕も最初バカかと思った。 後者のはずがない。テニスコートを駆け回って、なにを選んで中華料理に入れるっていうんだ。 でも、テニスコートを駆け回るで「切る」と、それはそれで「楽しいことなのか、それは」という疑問もわく(のらしい)。 テニスは「駆け回る」スポーツだが、この「言い方」は試合をしている風に聞こえない。相手がいないコートで、あるいは敵味方どちらのコートも使って(鼻たらして)ワーワー走ってるだけみたいな図が浮かぶ。それは「楽しいこと」なんだろうか。 そうすると、後者の「理解」にも一定の説得力がある。 映画「ロッキー」の「鶏集め」の場面みたいに、あるいは「ランドストーカー」(昔のセガのゲーム)のミニゲームみたいに、テニスコートに放たれた小動物(中華によいとされる)を必死に集めるのかもしれない。 「切れても」みえるし、「切れず」につながっても、別の「景色がみえる」。 そして歌謡曲の歌詞においては多くの人が無自覚にしている「切る」ということを、俳句では自覚的に行う。 「ダンシング・ヒーロー」の例はともかく、「ひとつだけ」の例で「切れている」ことと、俳句でよくいわれる「切れ」は近似したことだ。 同じだ、といいたいが、コワモテの俳句やってる人から「同じじゃない」と言われそうな気もするので、あらかじめ「近似」ってことにしておこう(なんと斬新かつ軽妙な予防線よ)。 「ポメラニアンすごい不倫の話きく」という拙句がある。拙句と謙遜しつつ、とても人気があって、僕と言えばポメラニアンの句の人、という感じもある(無季の句なのだが)。 俳句をしない人にもウケのいい句である。いわんとする世界が(俳句をせずとも)伝わりやすいのだろう。 「ポメラニアンがすごい不倫の話を聞いている」のだと理解される。 だが、俳句をする人は「ポメラニアン」と「すごい不倫の話聞く」を「切る」。 「これはポメラニアンで切れるんですね」と言ってきたりする。 つまり「ポメラニアン」と「すごい不倫の話聞く」の間には因果がないと「する」のである。 「テニスコートを駆け回る」ことと「選び抜いたもの集め作る中華料理」を箇条書きに考えるのに、近い。 でも、そうやって「切る」人の思い浮かべる景色は「ポメラニアンが部屋かどこかにいて、それはそれとして、誰かのすごい不倫の話を誰か(もしかしたら作者)が聞いている」図である。 つまり、切らない人と同様、ポメラニアン、不倫の話聞いているのだ! 「古池や蛙飛び込む水の音」もだ。 「古池」と「蛙飛び込む水の音」は「切れる」。 では「蛙が飛び込んだ」のは、じゃあどこかというと「古池」だ。 切る人も、そう思ってはいる。 じゃあ、いいじゃん! 切らなくても! と思ったろう。 でもそうすると、それはつまり「古池『に』蛙飛び込む水の音」でいいじゃん! と言っているということなのだ。 あれ、それじゃあ、なんか、俳句っぽくないぞ。文章じゃん。と、俳句をしない人もそこでやっと、思うだろう。 ここでは「に」ではなく「や」で「切れてる」からこそ、俳句が俳句なんである。 ポメラニアンの句には「や」という切れ字がないけども、俳句の者には(忍びの者、的な「者」のニュアンスで)もはやみえない切れ字がみえるようになっている。 変なの、と思うし、面白く奥深いことだ。 (切れ字や「切れ」について、「俳句の者」たちは「面白く、奥深い」ことだと「だけ」(ときに、季語以上に大事なことだと)言いあう。だが、身に付いてしまう体質みたいなことについて「変なことだなあ」という気持ちも同時に持っていたいものだ)。 最後に、河合奈保子の「けんかをやめて」(作詞は竹内まりや)を「切る」目でみると大変だという話をする。 「けんかをやめて 二人を止めて 私のために争わないで」 可憐さ(と若さ故の傲慢)を歌った名曲だが、このサビの歌詞も一節ごとに「切れている」気持ちでみると、様相が一変する。 けんかをやめることと二人をとめることがすべて自分のことになるのだ。 「(彼との)けんかをやめ(ることにし)て、(なにかでいがみ合ってる)二人をとめ(ることにし)て」箇条書きの備忘録である。 「けんかをやめて 銀行によって通帳記入して 二人をとめて 南瓜とれんこん買って」と心で言っている人の歌だ。 そのように解していくと、最後の「私のために争わないで」が俄然、謎を増してくることになる。 「切る」ことの奥深さが伝わる、これもまた一つの例である。 うそだ。台無しである。  

今日の俳句

  クリスマスは単語自体に「切れ」が宿る言葉だ。 テレビのリポーターが「町はクリスマス一色」というとき、クリスマスを空気やムードとみなして状況に「併置」している(僕はクリスマスは二色だといつも理屈を思うのだが、それはさておき)。 だからクリスマスの句は切れ字がなくてもいい句になる(ことが多い気がする)。 「強姦と和姦の境ゆすら梅」のほか「ぜんぜん気にしていない人やブルドッグの奴隷かな」などの「狂い切れ」の句で有名な崖元であるが、このような軽やかな句もサラっとものするのだった。クリスマスは子供のための催しのようでいて実は大人のためのものでもあり、これもまた楽しい大人たちの句だ。

三の隣は五号室 俳句ホニャララの作者が、本名で小説家デビューし、15周年を記念する第14作品集。 へんな間取りが生み出すブルース。 第52回谷崎潤一郎賞受賞作品。

春のお辞儀(ふらんす堂刊) 俳句ホニャララの作者が本名で刊行した第一句集「春のお辞儀」絶賛発売中。 最初で最後の活版印刷で限定発売。

俳句同人 傍点 2014年結成の俳句同人。主催(主宰にあらず)は長嶋有。 ツイッター上の言葉遊びをきっかけに、作家、漫画家、造園業、主婦、心理学者、学生、デザイナー、官僚など幅広い職種のメンバーが集う。句会では誰もが点数に拘泥し、逆選の応酬でギスギスと盛り上がる。 同人名の由来は、主催が傍点好きでやたら文章にふることと、俳句とは、それ自体が世界に傍点をふるような行いだというこじつけから。

SUPERSTARS 誰が呼んだかスーパースターズ。自ら呼んだよスーパースターズ。そんなスーパースターズはボーカルのsmallest、作詞のブルボン小林、作曲の KUNIOから成る、吉祥寺の焼き鳥屋で結成された3人組である。個々のスキルはそれなりに高く、行動は実に遅い。そんな大人の事情を抱えた3人組なのだ。

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ブルボン小林

ブルボン小林

72年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。 00年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。 常にニッチな媒体を渡り歩き、北海道新聞、週刊文春などのメジャー誌から、スウェーデンの雑誌やメルマガなどでも連載。 06年刊行の「ぐっとくる題名」(のちに中公文庫)は、広告業界やテレビ局の人間など、あらゆる「命名する」世界の業界人たちから絶賛され、ひそかな小ヒット。 現在は朝日新聞(関東と九州)、女性自身などで連載。小学館漫画賞選考委員。 その他の著書に「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」(ちくま文庫)、「ゲームホニャララ」(エンターブレイン)、「マンガホニャララ」(文藝春秋)など。 ブルボン小林 公式サイト

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