HAIKU HONYALALA Vol.11 BOURBON KOBAYASHI

February 27,2016 /

今年も「ファミ詣」が開催された。そこで僕とゲームボーイで音楽を作るKUNIO、作詞にブルボン小林という3人で「SUPER STARS」というチップチューンユニットでライブをしました。1MC 1GAME BOY & 1POMERAの3人。POMERA…?知ってますかPOMERA。僕はブルボンさんがスタジオで黙々とタイプしている姿を見て知りました。真っ黒なボディにキートップの文字がニブイ金色。かっこいい。「物書きはだいたい使ってるよ」という言葉にも惹かれ、早速僕も手にしたPOMERA。 やった!これで俺も物書きの仲間入りだ!(smallest)

ブルボン小林の俳句ホニャララ / vol.11

 最近、参加した句会の出題に「桜(一切)」と書かれていた。 「桜」はわかる。季語だ。だが、カッコ書きの「一切」とはなんだろう。 「今後、娘には一切近づいてくれるな」とか「一切合切ぶちまけてやる!」の一切だろうか。ナンカコー、ネガティブな意味合いを宿しているようだが。 僕は周囲を見回した。周囲には、僕の主催する俳句同人「傍点」の、つまりは後輩の連中も大勢、座している。 誰か(誰でもいいから)、手を上げないか。 「アノー、桜の隣に書かれている『一切』ってなんですかぁ?」そう聞いてくれないだろうか。 俳歴二十年以上を誇る俺に比べても、君たち、俳句全般について知らないはずだろう。つまり、君たちならば、質問しても恥じゃない。無学を露呈したことにはならぬ。 問えば早速、その場の誰か学のありそうな人が「それは○○のことですよ」教えてくれるだろう。そうしたらすかさず 「ですよね」合いの手を入れればいい。凡さん(俺のこと)、もしかして「一切」の意味、知らなかったんじゃないですか? などと後輩に邪推されることもなく、面目が保たれるというものだ。 ところが、場の誰も「一切とはなにか」を尋ねようとしない。もう! と思う。 句会はそのまま作句時間に突入してしまった。 こいつら、コノヤロウ! 俺は同人の仲間を呪詛の眼差しでみつめた。知ったかぶりではない、と思った。哀れな彼らは「一切」の意味など知らないどころか「知らなくても構わない」みたいな、邪気のまるでないグーフィとドナルド・ダックみたいな呑気顔を並べてただただ座ってやがる! しかし、ここは句会だ。俳句を作らなければならない。通常は「桜」という言葉で俳句を作るわけだが、添えられた「一切」の意味がわからないと、とんだバカな句を提出してしまうことになる(可能性がある)。 「これは、あー、たしかに桜の句ですが……一切ではありませんナ(眼鏡の縁を光らせながら)」 「ずいぶんと無学な人がおられるものだ」 「どこの同人の方でしょうな」ハ、ハ、ハ、ハ(←いっせいに笑い出す座の連中) 「さて、作者は一体、どなたですかナ?」 ……そういうみじめな名乗りをしなければならない(可能性がある)。 「一切」を知らないくらいで、そんな大げさなと思う向きもあろうがこっちも俳歴二十年だ。知らないけど、分かっていることはあるのだ。 俳句の世界には、難しい文字と、知らない符丁が非常に多い。それらは、その世界のアイデンティティにもしかしたら関わっている。 どんな世界もまあ、そうではある。文字を読める読めないだけでない、「こう振舞うと粋(いき)」みたいなことも、門外漢に分からないが様々に「ある」。 漫画『ヒカルの碁』で、初心者の主人公がオズオズと「コトリ」みたいに石を盤面に「置いた」ら、対戦相手が「ビシィッ!」みたいな感じで石を「指した」ような、「勝敗以前にもう負けた!」みたいなことが、あるわけだ。 たとえば、句会の主なやり取りとして、よいと思った句を言い合うことを「披講(ひこう)」という。それくらいの専門用語ならまあ、どんな世界にもあるだろう。 だけど、その披講のとき 「○○、選!」と出し抜けにいう。急にいうのだ。誰も、事前に教えてくれない。 「えーと、僕がいいと思った俳句は三番の句と七番の句と……」とかではない。「僕」ではなくて「○○」と急に自分の俳号や下の名前をいい、「選びます」ではなく「選!」だ。 びくっとする。「コトリ」ではない「ビシィッ」をみせられた瞬間だ。 久住昌之の漫画に、ラーメン二郎的な店で「脂マシマシ!」「バリカタ!」と、常連客がいっせいに言い始めたことで脅える一見の客を描いた短編があったが、そういう「えぇっ!」という衝撃と緊張といえばいいだろうか。 句会も同様に、巧まずして威圧を与えてくるのだ。 また、俳句作品それ自体に難解な文字も多く用いられる。句会で提出された句に読めない字があるとき、気持ちがモゾモゾする。 父は昔『三四郎』を読んだとき、ヒロインの名前「美禰子」の禰の字が最後まで読めず、ずっと心の中で「みファこさん?」とモヤーと思いながら読了し、ついにみファこさんの印象しか残らなかったといっていた。昔の本はルビをふっていなかったのだ(今、笑って読んだあなたは禰が読めていたのだろうか)。 句会は、美禰子レベルの難読字が頻出する。匿名で全員の句が提出され、一覧をみながら、さあ選句だというときになって「これ、なんて読むんですか」と訊く人もいる。が、これは実は奨励されない行いだ。匿名で俳句を出し合って、互いに選びあう仕組みだ。「なんて読むんですか」と尋ねた時点で、その人はその句の作者ではないことが分かってしまうからだ。 そういう句は「選ばない」ことで音読を避ける手がある(hidoi!)。しかし、選ばなくても安心はできぬ。披講において「ブルボンさんは五番の句は、なぜ選ばれなかったのですか」と意見を求められることもあるからだ。それまでに、その句を音読する人の読みに耳をそばだてて、知っていた風の準備が欠かせない。 そこに加えて符丁の数々。俳句も俳句だ。もう、いいじゃないか。二十年以上やっててもまだ、知らない言葉が出てくるのか! なんだよ「一切」って! 逆ギレ気味に俺は手を上げてしまった。 「『一切』ってなんですか」と。 やはりまあ、訊くしかないのである。 また、たとえば難しい字があっても選句の際に、その場で漢和辞典を用いて調べればいいだけのこと。無学を開き直ってはいけないし、逆に難解な字を用いるなよ、などとただ思ったりはしない(安直に、ただ思わせぶりに難読字を用いることには与しないが、表現はどこまでも自由であるべきだ)。 でも時々、こうも思う。「披講しましょう」でなく「えーと、よいと思った句を言い合いましょう」と言ってしまうような認識でも、いいじゃないかと。それでも俳句(句会)は成立する。 先の例だが、『ヒカルの碁』の主人公は碁石を「コトリ」とおずおず置くやり方で「ビシィッ!」の少年に完勝してしまう。いかにも漫画的な仕掛けあってのことだが、そのことは、囲碁の実力(本質)と、作法は実はぜんぜん無関係ということも示していて痛快だ。 「披講します」「○○、選!」「桜(一切)」といった「言い方」に、慣れて馴染んでしまうことは、そのものの本質とは実は無関係だということを、頑固に忘れたくない。いつでも立ち戻ってオズオズとことに当たっていたい、ともなぜか思うのである。 で、桜(一切)の意味だが、ここにはあえて書くまい、辞書的に想像した通りの意味ではあった。

 

今日の俳句

 (この時期に夏の句で恐縮だが)今回の「読めない字」で必ず思い出す一句。皃は顔のことだそうだが、その形だけをもってして、その字をここに使った甲斐があると、ずっと忘れずにいる句だ。みればみるほど、蜂のもげた頭部がくっきり浮かんでくる字の型ではないか。俳句は言葉以前に「字」を用いる表現だったのだ。

SUPERSTARS 誰が呼んだかスーパースターズ。自ら呼んだよスーパースターズ。そんなスーパースターズはボーカルのsmallest、作詞のブルボン小林、作曲のKUNIOから成る、吉祥寺の焼き鳥屋で結成された3人組である。個々のスキルはそれなりに高く、行動は実に遅い。そんな大人の事情を抱えた3人組なのだ。

春のお辞儀(ふらんす堂刊) 俳句ホニャララの作者が本名で刊行した第一句集「春のお辞儀」絶賛発売中。 最初で最後の活版印刷で限定発売。

俳句同人 傍点 2014年結成の俳句同人。主催(主宰にあらず)は長嶋有。 ツイッター上の言葉遊びをきっかけに、作家、漫画家、造園業、主婦、心理学者、学生、デザイナー、官僚など幅広い職種のメンバーが集う。句会では誰もが点数に拘泥し、逆選の応酬でギスギスと盛り上がる。 同人名の由来は、主催が傍点好きでやたら文章にふることと、俳句とは、それ自体が世界に傍点をふるような行いだというこじつけから。

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ブルボン小林

ブルボン小林

72年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。 00年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。 常にニッチな媒体を渡り歩き、北海道新聞、週刊文春などのメジャー誌から、スウェーデンの雑誌やメルマガなどでも連載。 06年刊行の「ぐっとくる題名」(のちに中公文庫)は、広告業界やテレビ局の人間など、あらゆる「命名する」世界の業界人たちから絶賛され、ひそかな小ヒット。 現在は朝日新聞(関東と九州)、女性自身などで連載。小学館漫画賞選考委員。 その他の著書に「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」(ちくま文庫)、「ゲームホニャララ」(エンターブレイン)、「マンガホニャララ」(文藝春秋)など。 ブルボン小林 公式サイト

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