HAIKU HONYALALA Vol.6BOURBON KOBAYASHI

April 29,2015 /

僕はいま心配をしている。なぜならBKが4月から新たに二つも連載を始めたからだ。「ブルボン小林の捲るめくマンガ(朝日中高生新聞にて連載、毎月第一日曜日)」と「ブルボン小林の末端時評(朝日新聞夕刊にて連載、毎月第三土曜日、関東、九州、デジタル版)」。それに「マンガホニャララ(週刊文春、隔週)」と、この「俳句ホニャララ(ほぼ月刊)」という月に連載を四つも抱えだしたのだ。そんな中で「お酒を飲む時間はあるのかな?」とか、「ブーメランを投げる時間はあるのかな?」とか、「句会をする時間はあるのかな?」などと思ってしまう。しかしそこはBK、夜通し酒を呑んで早朝からブーメランを楽しそうに投げたあと句会でワイワイやっていた。えーと、心配すんのやめた!(smallest)

ブルボン小林の俳句ホニャララ / vol.05

 ツイッターで、尊敬する先輩の俳人が不意につぶやいた。 「春うららという季語が嫌いだ」と。  春うららという言葉は、俳句に詳しくない人でもなんだか知っているだろう。知っているというか、分かると思う。歳時記や辞書をひかなくても、気分が伝わる。 「すっかり春うららだな」なんて具合に、日常でも用いられる。カタカナの「ハルウララ」で、競走馬の名前にもなった。人口に膾炙し、かつ「季語っぽい」言葉である。  それが嫌いだ、という。  俳句に親しんでみると、まあ、分かる。「春うらら」は過剰なのだ。冬うららなら、いい。「冬らしからぬ、ぽかぽかした一日の気配」だ。だが春はそれ自体、うららかなものだ(「うららか」単独でも春の季語とされている)。つまりイメージの重ね塗りだ。そこで重ね塗りしているのが「良さ」であることも、栄養過多でベタついて感じられる。  分かる、とかいいつつ、そのツイートをみた瞬間に僕がまず思ったのは分かるではなく「ヤベエ!」だった。  えーとえーと、俺の俳句に「春うらら」を季語としてつかった句なかったかなかったかと心の中で検索をかけはじめる。このままでは尊敬するセンパイに「ブルボンさん……まさか、春うららなんかで俳句を?」眉をひそめられ、たちまち周囲の取り巻き連中にも「うわ、ブルボンの俳句超ダッセェ!」「風流ぶって」「しょせんはポンチ絵俳人」みたいにヒソヒソいわれる!と(註・その先輩にそんな下品な取り巻きはいません。妄想です)。 しかしである。「嫌い」という言葉は「好き」並に強い。『ビー・バップ・ハイスクール』で美少女転校生にリーゼントは嫌いと言われた翌日には即、丸坊主にして登校したトオルとヒロシくらいの転向を、自分でもすべきではないか? と咄嗟に焦ったのである。「ですよねえ、春うらら、よくないっすよねえ! 俺も昔からマジ嫌いっした」と(←おまえが下品な取り巻きだよ)。  ……そういえばずいぶん前、尊敬する大先輩の作家に、対談の礼状を送った。 「(Oさんの著作を読み)なにやら凛とした気持ちになりました」とかなんとか書いて、誤字脱字もチェックしたから、あとはポストに投函するだけというときに、その作家がアンケートに答えた記事をみつけ、たまたまめくったら「嫌いな言葉・凛として」とあって、ヤッベエ! 書き直し書き直し!……とかいうことがあったが、これはそのときに近い取り乱しだ。 (偉大な先達がなにを嫌いであろうと、自分の表現は自分の表現として泰然としていればよいのに、そういう「芯」がすこぶるヤワな「グンニャリ系物書き」として、こちとら十何年やってきているのである……それはまあそれとして)  いや、今回語りたいのは僕のグンニャリぶりではなく、春うららがどうこうでもない。  季語にも「嫌いな季語があっていい」ということだ。 「俳句って、季語をいれないとダメなんですか」みたいな質問はときどきされて、それに対する言葉は僕にも一応ある。つまり、考えがある。  だが、俳句に季語をいれるか・いれないかという考えの先には、(「季語は入れるもの」としても)そのうえでなお「好きな季語、嫌いな季語」があっていいのだ。  僕が教えている俳句集団、傍点のメンバーでも「日脚伸ぶ」という季語を蛇蝎のごとく嫌う同人がいる。  日脚が伸びる、冬の終わりのころを表す季語だが、「日脚伸ぶ」の「ぶ」が特にイヤなんだと思う(古い言い回しとしては、間違っていないのだが)。  日脚が伸びた=厳しい冬がもうすぐ終わる=春の到来=あたたか=ささやかなうれしさの「気付き」。という、季語自体が「言わんとする」ところに滲(にじ)む「ホッコリ感」が、「ぶ」の部分に宿っていると僕も思う。「日脚伸びる」という単調な言い方ならまだしも。いささか慈しみが過ぎやしませんか、ということだろう。  季語や言葉それ自体に宿るイメージの豊かさを借りることは、俳句という遊びの一つの肝だ。だけど豊かに内包されているものの中には、ときに過剰なものも宿っている。  ひとまず言葉遊びとして「季語は入れる」としても、それらに宿る(たとえば)甘さを、個別にみていいし、ときに我々は「嫌って」もいいのだ。それこそが、受け身でなくちゃんと自分で考えて創作に挑んでいるということの表れだ。  そういう話を同人としていて、ブルボンさんの嫌いな季語はなんですか? と問われて考えて、詰まった。全然、でてこない。  ……俺、たいていの季語が好きでも嫌いでもないわ。自分が実にドライに作句していることに改めて気づかされた。  俳句をすると、どれだけドライに、ただの言語ゲームとして挑んでいる人でも、季節を少し好きになるとは思う。さすがに僕にも、好きな季語はいくつかある。でもそれは「神の旅」とか「蛙の目借時」とかだ。いずれもなんつうか、漫画っぽい季語ばかり。  いつか、嫌いな季語も、説得力のある言葉で語ってみたいものだ。  最後に、「春うらら」を用いた自分の句だが、これが一句だけあっちゃったんですよ奥さん。 「春うらら酒樽割れば木の音す」というのだ(拙句集『春のお辞儀』所収)。  ……でもこれは、下記の光景をよんだ句であり、春うらら(麗)は、彼女の名前でもある。いわば「挨拶句」というやつだ。

ここはどうか一つ、彼女の見事な大キックに免じて(?)勘弁してほしい。


今日の俳句

ただごとを、繰り返しでわざわざいう句は、平成の今も作られるが、これは明治三十七年の句だそうだ。 感心するし呆れる。でも、どんな俳句も「わざわざ」言ってない句はないのだ、とも思う。 桜餅を三つ食ったということは、葉っぱも三枚食ったってことだ。文学的深みがないのがいい。言外に伝わるのも「センセー、食欲おありだな」ということだ。 「名だたる」俳人のうち、大虚子の句が一番、僕の性に合う。


Fライフ3号(小学館) 藤子・F・不二雄生誕80周年記念本第3号 俳句同人「傍点」の藤子・F・不二雄句会の内容を掲載。

増補版・ぐっとくる題名(中公文庫) テレビ、ラジオのディレクターや雑誌編集、広告などあらゆる「業界」人が絶賛する隠れ ロングセラーが、ついに文庫化。題名つけに悩むすべての人に送る、ありそうでなかった 画期的「題名」論をさらに増補。論だけど読みやすい! イラストも朝倉世界一氏による新規かきおろし!

春のお辞儀(ふらんす堂刊) 俳句ホニャララの作者が本名で刊行した第一句集「春のお辞儀」絶賛発売中。 最初で最後の活版印刷で限定発売。

俳句同人 傍点 2014年結成の俳句同人。主催(主宰にあらず)は長嶋有。 ツイッター上の言葉遊びをきっかけに、作家、漫画家、造園業、主婦、心理学者、 学生、デザイナー、官僚など幅広い職種のメンバーが集う。 句会では誰もが点数に拘泥し、逆選の応酬でギスギスと盛り上がる。 同人名の由来は、主催が傍点好きでやたら文章にふることと、俳句とは、 それ自体が世界に傍点をふるような行いだというこじつけから。

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ブルボン小林

ブルボン小林

72年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。 00年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。 常にニッチな媒体を渡り歩き、北海道新聞、週刊文春などのメジャー誌から、スウェーデンの雑誌やメルマガなどでも連載。 06年刊行の「ぐっとくる題名」(のちに中公文庫)は、広告業界やテレビ局の人間など、あらゆる「命名する」世界の業界人たちから絶賛され、ひそかな小ヒット。 現在は朝日新聞(関東と九州)、女性自身などで連載。小学館漫画賞選考委員。 その他の著書に「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」(ちくま文庫)、「ゲームホニャララ」(エンターブレイン)、「マンガホニャララ」(文藝春秋)など。 ブルボン小林 公式サイト

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