HAIKU HONYALALA Vol.5 BOURBON KOBAYASHI

March 16,2015 /

1月に吉祥寺のスターパインズカフェで「ファミ詣」というイベントがありました。 毎年僕とブルボンさんでマイクを使い、パーティーをロックしています。そして今年、とうとう誕生してしまったのです、DJブルボンが!はじめてとは思えないプレイにサイドの僕はただ頭振っているだけでした。という事でDJブルボンのオファーどしどし待ってますよ!(smallest)

ブルボン小林の俳句ホニャララ / vol.05

 漫画家の堀道広さんが「こフイナム」というwebマガジン(渋谷直角編集長)で、俳句の連載をしている。  一度に一句、堀さんの俳句と、それに伴ったイラスト、そして短い解説がある。シンプルな連載だ。もともと堀さんの漫画のファン(アックスに連載中の『俺は短大出』が出色!早く単行本になれなれと願い続けている)なので、俳句の連載も楽しみに読んでいる。  ……楽しみに読んでいるのだが、どうしても、気になる点がある。  例えばこんな句が載っているのだが。 母親の 吊るす干し柿 やけに黒い  帰ったら 手刀の練習 シュトーレン 小春日や 母が甘いパンばっか 買ってくる  字余りが気になるのではない。むしろ季語や切れ字など、正調の俳句といっていい出来映えの句も多い。では、なにが気になるのか。 母親の吊るす干し柿やけに黒い  帰ったら手刀の練習シュトーレン 小春日や母が甘いパンばっか買ってくる  このように、書いてほしいのだ! 五七五の間に空白を入れないでほしくて、むずむずする。  テレビのバラエティ番組の中で川柳や俳句を披露する場面でも、「○○の ○○○○○○が ○○○かな」と表記されることが多い。「和風」の書体で俳句っぽくしてあっても、間に空白が入る。やはりみていてムズムズする。  俳句をやっていくと、俳人は空白を入れて句を書かなくなる。「それは要らない」と誰かに教わるのだ。まず最初期に教わることの一つかもしれない。  短歌もそうだ。どこかの学生の企画で、歌会に参加した。参加者は事前にメールで短歌をスタッフに送る。スタッフはそれらの短歌をシャッフルして、匿名の状態でプリントしたものを配り、皆で選歌する、のだが、歌人や俳人全員が「うえっ」というような声をあげたのを今も忘れない。  僕を含め、本当に「生理的に嫌なものをみた」という声のあげ方を全員がした。すべて五七五七七の合間合間に空白が入っていたことに対してだ。学生は歌人や俳人を招いていながら、そのことは知らなかった。すぐにお願いしてプリントアウトし直してもらったのだが、いっせいに声をあげるほどの反応は、学生ではなく我々が変なのではないかという気さえする。  なぜなんだろう。なぜ空白を入れてはいけないのか。 「表現として、空白を本当に活かした俳句もあるから」と聞いたことがある。そうかもしれない。 松風吹かれの蓑虫 自衛官 午睡  いちご会議が始まる 全館 灯されて  上記二句は澤好摩の作だが、スペースが表現として用いられている。「母親の 吊るす干し柿 やけに黒い」をこれらの句と並べたら、母親と干し柿との間を「わざと」空けた、そういう表現の句にみえてしまうだろう。でもきっと、堀さんにはそういう意図はなかったはずだ。 「句またがり」というテクニックを用いた句もあるから、それらが見栄えしなくなるということもある。 曼珠沙華高さのすこしづつ違ふ 石田郷子 龍の玉附近や立ちて歩く事 永田耕衣  これらの句はたしかに五七五だが、区切り方は五七五ではない。「曼珠沙華 高さのすこし づつ違ふ」「龍の玉 附近や立ちて 歩く事」と表記してしまうとこれらは台無しになる。  と、いった理由で、俳句には空白を空けないのだろう。俳句をもっと勉強している人からは、さらに理路整然とした見解の言葉が出てくるかもしれない。  でも僕が空白をいれない理由は、「そう、躾(しつ)けられたから」みたいな感覚が一番強い。  ここで突然話が迂回するんだが、中学生のとき、男子トイレで不良に話しかけられたことがある。 「なあ、ブルボン(←実際にはブルボンと呼びかけられたのではなく本名で呼ばれた)、『おしっこしたら手を洗え』っていうじゃん?」 「うん」(二人とも小用を足しながらの会話) 「あれってさ、おかしくねえ?」と彼はいう。 「おしっこが手にかかったりしたら、洗わなきゃいけないって思うよ? でもさ、そうでないなら別に洗わなくてよくねえ? 別に手が便器に触れてるわけでもなくて、自分の体に触れてるだけだよ?」 「うん」(向こうはボンタン、こっちは標準のズボンがさがっている)  ……今、書き起してみると、ずいぶん理屈っぽい不良で、本当は大して不良じゃなくて僕が一方的にびびってただけの普通の生徒だったかもしれないが、そのとき、びびりとかと無関係に反論できなかった。彼の言葉には理がある。パンツの中にしまわれている部分が、特別に不潔なわけがない。  細菌の付着数の増減を厳密に検証しても、理屈不良の言ってることが正しいような気がする。水をちょっと手にかけただけで、ズボンでごしごし拭くような手洗いだとしたら、むしろその方が掌の雑菌を増やしているかもしれない。  でも、その真実に説得されるだろうか? なるほど、これからは手洗いやめようっと、となるだろうか。  皆、洗うだろう。  幼いときからの躾のようなものは、なにか目前のそれとは次元の異なる正しさの中にある。  始めた時点で大人でも、俳句というものについて「幼い」ときにまず躾られることだから、「生理的な」拒否になる。  だから、なんというか、声高に言えない。  俳句の基本は「五七五」だから、五八五(字余り)とか対しては、まだこう、言える。だって、一応、俳句という遊びのルールだから、と(それでも杓子定規にしないものだ)。  堀さんの連載は絵も含めてとても楽しいものだ。だから、間違いを正すというより、下から「頼む」気持ちでいいたい。 スペースを空けないでくれ頼みます


今日の俳句

 鈴の音がよいという(だけの)句だ。鈴は空洞で、中に玉が入っていて、揺れるとその玉が本体を叩くから鳴る。鈴自体の真実はそうだけど、鈴が鳴っているとき、誰もそんなこと(小さな鈴の中の玉のことなんか)を思ってない。 でも俳句は思い致す。玉ある、玉がんばってる、と。 いや、もしかしたら、鳴らずに静止している(けど、間違いなくある)玉の丸さを愛した句かもしれない(読んだ通りなら、むしろそう解釈すべきだ)。間違いなくある、隙間からしかみえないような小さなものを見逃さないという、俳句の一つの喜びを表したような句だ。

Fライフ3号(小学館) 藤子・F・不二雄生誕80周年記念本第3号 俳句同人「傍点」の藤子・F・不二雄句会の内容を掲載。

増補版・ぐっとくる題名(中公文庫) テレビ、ラジオのディレクターや雑誌編集、広告などあらゆる「業界」人が絶賛する隠れ ロングセラーが、ついに文庫化。題名つけに悩むすべての人に送る、ありそうでなかった 画期的「題名」論をさらに増補。論だけど読みやすい! イラストも朝倉世界一氏による新規かきおろし!

春のお辞儀(ふらんす堂刊) 俳句ホニャララの作者が本名で刊行した第一句集「春のお辞儀」絶賛発売中。 最初で最後の活版印刷で限定発売。

俳句同人 傍点 2014年結成の俳句同人。主催(主宰にあらず)は長嶋有。 ツイッター上の言葉遊びをきっかけに、作家、漫画家、造園業、主婦、心理学者、 学生、デザイナー、官僚など幅広い職種のメンバーが集う。 句会では誰もが点数に拘泥し、逆選の応酬でギスギスと盛り上がる。 同人名の由来は、主催が傍点好きでやたら文章にふることと、俳句とは、 それ自体が世界に傍点をふるような行いだというこじつけから。

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ブルボン小林

ブルボン小林

72年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。 00年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。 常にニッチな媒体を渡り歩き、北海道新聞、週刊文春などのメジャー誌から、スウェーデンの雑誌やメルマガなどでも連載。 06年刊行の「ぐっとくる題名」(のちに中公文庫)は、広告業界やテレビ局の人間など、あらゆる「命名する」世界の業界人たちから絶賛され、ひそかな小ヒット。 現在は朝日新聞(関東と九州)、女性自身などで連載。小学館漫画賞選考委員。 その他の著書に「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」(ちくま文庫)、「ゲームホニャララ」(エンターブレイン)、「マンガホニャララ」(文藝春秋)など。 ブルボン小林 公式サイト

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